はっきりしていることがある。
朝日新聞は日本を貶めるメディア。従軍慰安婦の話で韓国との関係を最悪にしたことを忘れている人が多いことが信じられない。
そもそも朝日新聞は嘘報道機関ということで世の中から抹殺されるべき社だ。
こんなのを放置している限り、日本の経済発展など望めない。
日本人のリテラシーの問題。
新聞なんて買わなきゃいいのだから、この朝日新聞のやばさに気づいた人はすぐに判断してほしいものだ。
大体、このキャスター。バカだ。記事にあるように、
大越健介キャスターは、当該発言を「事の発端は発言を公にしない、いわゆるオフレコを前提にした記者団の取材での発言ですけれども、非核三原則は日本の安全保障政策の根幹に関わる問題であって、我々としてはその内容を報道すべきだと判断しました」
「核兵器の保有について、個人として意見を持つのは自由ですが、高市総理に安全保障政策についてアドバイスをする立場にある公人としての発言だけに、重大であり、内外に大きな波紋を呼んでいます」
この二つについて、どんな因果関係があるのか?憶測でしかない。
個人として意見を持つのが自由、なら、関係ないじゃないか?テレビ朝日専属(局契約)ニュースキャスターだが、一浪して東大でこのレベル。やはり朝日だ。事実上朝日新聞社の傘下。
中国から何かもらっているのか?と疑うレベルの見識のなさ。
日本のことを考えるなら、これは絶対に報道してはいけない、と判断するだろう。
それを破って正当化するみっともなさ。単にスクープ狙いならもっと卑しいが、その可能性は否定でいない。
参考までにWikiより、この、朝日新聞の慰安婦報道問題、一点だけで、解散しておかしくない。再度、この議論を持ち出すべきだと考える。
Yahoo!より、
【高市自民】「報ステ」大越健介キャスター「オフレコ発言ですが報道すべきと判断しました」 官邸高官が核保有発言→中国が早くも非難始める最悪展開「高市総理に安保政策を助言する立場の公人。重大です」
12/19(金) 22:33配信デイリー

日本を貶める報道とは何か──朝日新聞・テレビ朝日の構造的問題を考える
はじめに:問題は「思想」ではなく「論理」である
メディア批判というと、しばしば「右か左か」「保守かリベラルか」という対立に矮小化されがちだ。しかし、本質的な問題はそこではない。
問題は、
論理が成立しているか、
報道倫理が一貫しているか、
国益と公共性をどう位置づけているか、
この3点に尽きる。
その観点から見ると、朝日新聞および系列メディア(テレビ朝日)の報道姿勢には、看過できない構造的な問題がある。
繰り返される「後戻りできない報道」の記憶
朝日新聞の報道姿勢を考える上で、避けて通れないのが、いわゆる慰安婦報道問題である。
この問題は単なる「過去の誤報」ではない。
国際関係、とりわけ日韓関係に深刻な影響を与え、日本外交の足かせとして今なお影を落としている。
事実関係や経緯については、以下に詳しい。
参考(Wikipedia):
https://ja.wikipedia.org/wiki/朝日新聞の慰安婦報道問題
重要なのは、「誤りがあったか否か」だけではない。
誤りが国益に及ぼした影響の大きさ、
検証と総括が十分だったのか、
この点が、今なお問われ続けているという事実である。
今回の事例:オフレコ発言を「報道すべき」とした判断
2024年12月、テレビ朝日「報道ステーション」において、官邸高官のオフレコ発言が報道された。
Yahoo!ニュース(デイリー):
https://news.yahoo.co.jp/articles/f842a80fa330acbc73787a7859c9b60156311d20
大越健介キャスターは、報道の正当性について次のように説明している。
「個人として意見を持つのは自由だが、
安全保障政策を助言する立場の公人としての発言であり、
重大で、内外に大きな波紋を呼ぶため報道すべきと判断した」
一見すると筋が通っているように見える。しかし、ここには決定的な論理の飛躍がある。
論理の破綻:因果関係が成立していない
整理すると、主張は次の二つである。
- 個人として意見を持つのは自由
- 公人の立場での発言だから報道すべき
しかし、この二つの間に、論理的な因果関係は存在しない。
- オフレコを前提とした発言であること
- 政府の正式方針ではないこと
- 個人の見解であること
これらを認めた上で報道するのであれば、
「報道しない」という選択肢が最初から排除されている理由が説明されなければならない。
実際には、
「重大だと思ったから報道した」
という主観的判断が、
結果として国際的な波紋(中国の即時反応)を引き起こしている。
これは報道なのか、それとも政治的効果を伴う行為なのか。
ここが曖昧なまま正当化されている点に、異常さがある。
報道倫理と国益のバランスはどこにあるのか
報道の自由は重要である。
しかし、自由には常に責任が伴う。
特に安全保障に関わる問題においては、
- 事実か
- 公益性があるか
- 不可逆的な外交的損害を生まないか
という判断が不可欠だ。
「スクープ性」や「報道の使命」を掲げる一方で、
報道しないことが最も合理的だった可能性について、
検討した形跡は見られない。
この姿勢は、過去の慰安婦報道と構造的に重なって見える。
メディアリテラシーの問題として
もはやこれは、特定メディアだけの問題ではない。
- 見出しだけで判断しない
- 誰が、どの立場で、何を根拠に語っているのかを確認する
- 「報道された事実」と「報道による影響」を切り分けて考える
こうした受け手側のリテラシーがなければ、
同じ構造は何度でも繰り返される。
新聞やテレビは「買わない・見ない」という選択もできる。
それ自体が、市民に許された合理的な意思表示である。
おわりに:問われているのは、報道の自己検証能力
朝日新聞、テレビ朝日に限らず、
メディアが最も恐れるべきは「批判」ではない。
論理の一貫性を失うこと、
自己検証を怠ること、
それこそが信頼を静かに、しかし確実に失わせる。
報道の自由を守るためにも、
報道そのものが、より厳しい論理と責任にさらされるべき時代に来ている。
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